2012年12月17日(月)00時13分

【コラム】Xboxは何故日本で失敗したのか

gates-poster.jpg

欧米市場と比較して、期待されるほどの成績を残すことができなかったXboxとその後継機Xbox 360。Xboxの立ち上げに関わった当時のスタッフの談話を基に、舞台裏では一体何が起きていたのかを探るコラムを、Eurogamerが掲載しています。

なお、原文が非常に長いため、2ページに分割してあります。

2001年3月30日金曜日、Bill Gates氏はTGSにて待望の基調講演を行うため、ステージに出る準備をしていた。幕張エキシビション・ホールは4000人を越える聴衆で埋まり、カプコン、スクエア、テクモ、セガ、ナムコといった日本の大手パブリッシャーの幹部たちが勢揃いしていた。世界中のマスコミも同様で、全員がXboxを見るために会場を訪れていた。

バックステージでGates氏は、当時Xboxへのサード・パーティーの誘致を担当していたKevin Bachus氏の方に向かい、「これを持っていてくれ」と財布を渡した。「喋る時にポケットに何か入っているのが嫌なんだ」。

突如として、Bachus氏は世界で一番のお金持ちの財布を預かることとなった。クレジット・カードと免許証しか入っていないのではないかというくらい、薄く感じられた。

Kevin Bachus: 開けるのさえ怖かったよ。でも、大金持ちならそれ以外は必要ないだろう?

TGSにおけるGates氏のスピーチは、Microsoftがコンソール・ビジネスに真剣であることを日本のゲーム業界に示すことが目的だった。世界で最も有名で、尊敬されるビジネスマンの1人であるGates氏は、時間を掛けて日本にその重要性を実感させなければならなかった。

だが、事はそう上手くは行かなかった。

Gates氏は、日本のゲーム業界の重要性や、TGSの2週間前にガンで亡くなったセガの元社長、大川功氏に対する敬意を雄弁に語った。大川氏は「偉業を成し遂げた素晴らしい人物だった」とGates氏。同時通訳のヘッドセットを付けた日本の聴衆たちも、礼儀正しくGates氏の言葉に耳を傾けていた。だが、Gates氏がXboxについて話し出した途端、基調講演は見識溢れる業界分析から、売込みへと変貌していった。

Gates氏は、『Panzer Dragoon』『Jet Grind Radio Future』『Sega GT 2』『Gun Valkyrie』といったセガのXbox独占タイトルや、欧米向けの物とはサイズやボタン配置が異なるXboxコントローラーSを発表。更に、日本のゲーマー向けとなる日本製ゲームの開発や日本のパブリッシャーを誘致を目的としたXbox日本支部を設立し、元ソニーの宮田敏幸氏が同支部を率いることが明らかにされた。

宮田氏は、『Azurik: Rise of Perathia』『Amped: Freestyle Snowboarding』『NFL Fever 2002』『Halo』といったXboxゲームのビデオやデモを披露。コナミの『Air Force Delta 2』やテクモの『Dead or Alive 3』を発表することで、日本のパブリッシャーによる支持を強調。続いてGates氏は、8GBハードドライブが生み出す違いを力説。「日本市場では、当然ながらアメリカとは異なる反応が返ってくる」とGates氏。全くその通りだった。

主にPSNで配信されている地味な日本製ゲームのローカライズを手掛けるカリフォルニアの会社、MonkeyPawの社長であるJohn Greiner氏は、かつてハドソンで社長を務めた経験を持つゲーム業界のベテランだ。彼は日本に長く住み、日本人と仕事を共にし、日本文化を理解していた。

私は、幕張メッセの中にあるレストランで彼にインタビューをした。TGS 2012が開幕を迎え、背後では宣伝ビデオの爆音が鳴り響いている。「ここが私のオフィスだよ」とGreiner氏。

John Greiner: この手の大きなイベントの主催者であるCESAは、Gates氏のスピーチに腹を立てていたんだ。そのせいで、多くのデベロッパーやパブリッシャーが離れてしまった。CESAは事前にスピーチ内容をチェックしていたが、実際のスピーチは内容が異なっていた。部分部分がね。Gates氏はゲーム業界について話すべきだったのだが、実際はXboxを売り込んでいたんだ。それがアメリカ流さ!

それが大きな騒ぎとなり、腹を立てた人も多かった。Xboxの日本での第一歩がつまづいてしまったんだよ。Microsoftが必要としていた人たちの信頼を損ねてしまった。

MicrosoftとBill Gates氏から見ると、彼らの基調講演は適切なものだった。GDCやCES、E3といったアメリカのショウで行ってきたスピーチと全く同じだったからだ。しかし、日本では単なる宣伝行為と受け取られてしまった。

John Greiner: やり過ぎたわけではないが、幸先は悪かったね。

一方のBachus氏は、スピーチに問題はなかったと考えているようだ。

Kevin Bachus: 気に入ってもらえたよ。少し傲慢さが感じられるスピーチだったが、彼らにとって、そして人生の全てをゲーム業界で過ごしてきた私にとっても、Bill Gates氏のような人物がTGSに赴いてその決意を表明するというのは、妥当なことだったと思う。大きな出来事と言えるものだったし、私自身も楽しんだよ。

我々をサポートしてくれるよう、日本のゲーム業界に最後のお願いをし、ソニーや任天堂がE3でやってるような自社事業の説明をする。あのスピーチへの期待はそういうものだった。

というのも、当時のTGSではそういったことは行われていなかったので、特定の機種の話をするのではなく、できるだけ哲学を語るものにして欲しいという要望もあったんだ。どういうわけか、そうしたメッセージが上手く伝わっていなかった。

ゲーム業界というのは、10人で議論すると12の意見が飛び出すようなところなんだ。私自身は、あのプレゼンの後に皆が怒っているという印象は受けなかった。もちろん、「またいつもの野蛮な欧米人がズカズカやって来て、恥も外聞もなく商品を売り込んで行った」と感じた人もいるだろうが、Gates氏はそのために来日したと考えていたんだ。

あのスピーチは、E3やECTS、GDCでなら適切なものだった。しかし、ある種の期待があったことや、我々は基調講演を行う機会を与えてもらった立場だったということなどが、一部の誤解を生んだのかもしれない。だが、それが我々の関係に悪影響を及ぼしたということはないよ。実際、Gates氏が来日してゲーム業界や日本の重要性を雄弁に語ったことには、ポジティブな反応も多かった。

常に万人を満足させることはできないからね。

tgs2001.jpg2001年の東京ゲームショウ
計画の遂行

MicrosoftのXboxアドベンチャーは、Bill Gates氏がスピーチを行った2001年よりもはるか前からスタートしていた。Microsoftの本社があるレドモンドでXboxが誕生した時、その誕生に関わったBachus氏とBlackley氏は多くの時間を日本で過ごした経験を持っており、日本が難しい市場であることを理解していた。世紀が変わろうという頃、日本はコンソール・ゲーム市場の30%を独占していた。低調だったセガのドリームキャストは日本製だし、当時絶好調だったソニーのPS2も日本製。これまた日本製の任天堂ゲームキューブも発売が近づいていた。

Kevin Bachus: ソニー、セガ、任天堂のホームでプレーするのと同じことだ。その結果、我々は不相応なまでの労力を注ぎ込んで、日本におけるXboxの魅力を増そうとしたが、我々の前には様々な障害が立ちはだかったんだ。

Xboxという名称は、Microsoft製だけあってPCゲームとの繋がりを示すものだ。PCにおけるゲーム開発との親和性が高く、パッチの配信を容易にするハードドライブが付属し、インターネットにも接続できる。先見性のある素晴らしいコンソールで、欧米のデベロッパーには歓迎されるはずだ。

残念ながら、日本にはPCゲーム市場というもの自体存在しなかった。コナミやナムコ、カプコンはどこもコンソールのデベロッパーだ。しかも、Microsoftは先入観とも戦わなければならなかった。当時の日本のパブリッシャーは、殆どがXboxを日本人に見向きもされないアメリカ製ゲームのためのコンソールと見なしていたのだ。

Kevin Bachus: 我々が努力を始める前から、ゲーム会社や消費者の間には、Xboxが日本向けのコンソールではなく、日本で売られていても自分たちには関係のない存在だという先入観があったんだ。

だが実際は、Microsoft自身にも落ち度があった。Xboxのデザイン過程で下された決断には、日本のゲーム・コミュニティには理解できないものも少なからず存在した。

Xboxは怪物のようなゲーム・コンソールだった。重く、巨大で、繊細さとは無縁の代物。安価のプラスチックが使用されており、コントローラーは野球場で見かける指差しグローブ向けにデザインされたような巨大さ。日本人が考えるアメリカ製コンソールのイメージそのものだった。

Kevin Bachus: 元々は、後のPS3のようなお洒落でセクシーなデザインを予定していた。様々な理由、殆どはコスト絡みだが、発熱関係の理由もあった。それで当初のデザインは無理だということが発覚したんだ。あれを見た日本人は、これは日本人向けではないという思いを強くしてしまった。「あくまで欧米ゲーマー向けであり、たまたま日本でも発売されるだけだ」とね。

MicrosoftのXboxチームは、日本から様々なフィードバックを受け取った。当時のMicrosoft Game Studiosの幹部で、Xbox開発にも関わったEd Fries氏は、アドバイスの幾つかに困惑したと認めている。Microsoftが日本で発売した初期のPCゲームに、指が5本ないキャラクターが主人公のものがあった。Microsoftは、ヤクザの指詰めを連想させるこうした表現は、日本ではタブーであると言われたという。こうした状況は、Xboxの時代になっても続いた。

Ed Fries: 「X」は死を意味するから、Xboxという名前では駄目だと言われたし、黒は死を意味する色だから変えてくれと言われたこともある。「PS2も黒じゃなかったっけ?」と思ったものだ。余所者に当てはまるルールは、必ずしも国内製品には当てはまらないようだ。

日本のゲーマーは2本のスティックを使いこなせないため、『Halo』をそのままではリリースできないと言われたこともあるという。

Ed Fries: 我々は結局、日本向けに難易度を低くしたバージョンを作るハメになったよ。

日本からの反発の多くは、コントローラーに対するものだった。Bachus氏が「コントローラー紛争」と呼ぶその騒動は、Xbox開発チーム内で競い合う2つの派閥が原因だった。Microsoftで技術面とソフトウェア面をそれぞれ仕切っていたJ Allard氏とCam Ferroni氏は、競合他社が持つ機能全てを盛り込んだ、究極のコントローラーを望んでいた。ドリームキャストの拡張ポート、DualShockの2本のスティック、そして格闘ゲームに最適だったメガドライブの6つのボタン。

Microsoftでハードウェアを担当する技術屋たちは、前述した機能にプラスチックを巻き付け、オリジナルのXboxコントローラー・デザインが完成した。コードネームはDuke。テストでも、筋肉への負荷は殆どないとの結果が出た。Blackley氏とBachus氏、そして著名なプログラマーのMike Abrash氏は、このコントローラーは巨大すぎるし、誰もがそう思うはずだと感じた。

日本は大騒ぎになった、とBachus氏は言う。

Kevin Bachus: 「絶対に失敗する。誰も買わない」と言われたよ。Xboxをサポートするかどうか、考え直し始めたパブリッシャーまで出る始末だった。「これと巨大なコンソールを見れば、日本で成功する気がないのは明らかだ」とね。

Ed Fries: コントローラーは浮いてしまうくらい軽くなければ駄目だ、と言われたよ。

パニックになったBlackley氏とBachus氏は、突貫作業で後のコントローラーSの開発をスタートさせた。コードネームは「アケボノ」。日本初の外国人横綱がその由来だった。

だが、Microsoftには十分な数のコントローラーSを作る時間的余裕がなかった。そこで、欧米のロンチ・ユニットにはDukeを同梱し、後にアケボノへと切り替えられた。Xboxが2002年に日本で発売された時は、全てのコントローラーがアケボノだったが、時すでに遅しだった。

Kevin Bachus: 「あいつら、何も分かってないんじゃないか?日本で成功する気があるのか?」と言われたよ。辛い時期だった。

duke.jpgDukeコントローラー
ビジネスの話

Xbox発売前、Microsoftはアメリカ、イギリス、そして日本のサード・パーティーからサポートを取り付けるために奔走した。ミーティングが設定され、議論が交わされ、Microsoftは言うべきことを言い、パブリッシャーは契約を交わしたり交わさなかったり。

日本でのミーティングは、スムーズには進まなかった。PS1の大成功があったため、ソニーは日本のパブリッシャーの心をがっしりと掴んでいた。Microsoftをサポートすることで、ソニーを敵に回すのを恐れていたのだ。Microsoftの味方をしていると見られることすら恐れるパブリッシャーもあったという。

Kevin Bachus: E3でソニーのパーティーに行った時のことだ。我々との付き合いも長い日本のパブリッシャーが一堂に会していた。久夛良木健氏の横に立っていた知り合いが、私を見つけて「ヘイ!」と明るく声を掛けてくれた。すると彼は横に立っていた久夛良木氏に気付いて、「おっと、えーっと、申し訳ない、どちらさんでしたっけ?」と態度を一変させたんだ。ソニーを怒らせたくなくて、私のことを知らない振りをしたんだよ。

ソニーがパブリッシャーごとに異なるロイヤリティを設定していると聞いたMicrosoftは、全てのパブリッシャーのロイヤリティが同額という、公平な土俵を用意した。しかし、これを「忠誠心を金で買う行為」と見た日本のパブリッシャーもあったという。

Microsoftは、日本でXboxを全くのゼロ状態から立ち上げなければならなかった。Microsoftは、過去にドリームキャストのWindows CD版や、セガのコンソールの開発ツールを製作した経験からセガとの繋がりがあり、PC版『Metal Gear Solid』の移植ではコナミ、Blackley氏と板垣氏の個人的な関係からテクモともそれぞれ繋がりを持っていたものの、そうした関係は些細なものだった。

Microsoftの戦略は、テクノロジーを前面に押し出すことだった。Bachus氏とBlackley氏は日本を定期的に訪れて、Xboxのパワーの凄さを触れ回った。彼らは日本流に挑戦し、酒の席での交流を続けていった。長期的に見てXboxのためになるような関係性を築くことが目的だった。

2000年のE3、日本のゲーム業界の人間が大挙してロサンゼルスを訪れた。Microsoftにチャンス到来だ。Xboxチームは、日本風のキャバクラClub Cha ChaがLA国際空港の近くにあることを聞きつけた。日本の航空会社が、ファースト・クラスのお客だけに勧めているというクラブだ。場所はそこで決まり。

Bachus氏が貸し切ったクラブに、1人また1人と姿を現し始め、史上初めてMicrosoftの傘の下に日本のデベロッパーたちが集結した。彼らは大いに楽しみ、Microsoftは喜んでスポンサーとなった。パーティーが終わる頃には朝になっていたが、Bachus氏が勘定を見ると、その酒代は3万ドルを超えていたという。

Kevin Bachus: 日本の開発者たちは特に喜んでいたよ(笑)。パーティーは延々と続いたんだ。

彼らはとてもフレンドリーで、我々を受け入れてくれた。個人レベルではとても仲良くできたが、商業的な観点から見た時、彼らはXbox向けゲームへの投資をどうすれば正当化できるか、はかりかねているようだった。

コンソールにおいて古典とされるゲームの多くは日本製だ。しかし、それは日本製ゲームの氷山の一角に過ぎない。例えばナムコの場合、『Ridge Racer』や『鉄拳』といったゲームは日本と欧米の両方で大きな成功を収めている。だが、彼らがリリースするゲームの総数と比較すれば、欧米で発売されないゲームの方が遥かに多いんだ。だから、欧米では成功するかもしれないが、自分たちの本拠地である日本では失敗する可能性のあるタイトルに大きな投資をするのは、非常にリスキーなことなんだよ。

kevin.jpgKevin Bachus氏
ミーティング、ミーティング、更なるミーティング

ミーティングの席では、東西文化の違いが顕著に表れた。上手くいったミーティングもあった。Blackley氏は板垣伴信氏と親しかったため、テクモの『Dead or Alive 3』を独占ロンチ・タイトルとして確保するのは比較的容易なことだった。2004年には、板垣氏の『Ninja Gaiden』がXbox独占で発売された。

Kevin Bachus: 彼らとのミーティングを覚えているよ。「『Dead or Alive』のことを聞きに来たんだろう?みんな欲しがっているからね」という彼らに、私は「いや、違うんだ。実は『Ninja Gaiden』を作ろうと考えているという話を聞いたので、私が買った最初のゲームの一つである『Ninja Gaiden』を是非ともXboxで発売して欲しいと思っている。『Ninja Gaiden』とXboxでフランチャイズを展開したいんだ」と申し出た。

私の率直さと、目の前にあるヒット作だけを狙うのではなく、一から関係を築き上げたいという我々の望みに、彼らは良い意味で驚いたようだった。より商業的な視点から見ていたデベロッパーよりも、彼らはMicrosoftとの関係を諸手を挙げて謳歌しているようだったよ。

日本でのビジネスのやり方はアメリカのそれとは大きく違うということを、Xboxチームは痛感することとなる。アメリカのビジネス・ミーティングは通常、契約・条件を議論し、契約書にサインして仕事にかかる。日本では関係の強さがビジネスのベースであり、食事の席やカラオケ・バーで培われていくのである。契約にサインする前に、相手の素性を見極めようとするのが日本人なのである。

Ed Fries: 私が95年に初めてゲーム・グループを指揮することになった時、ナムコとの間で『Return of Arcade』というゲームを手掛けていた。彼らとのアーケード・ゲーム集はこれが2作目で、ナムコのアーケード・クラシックをPCへと移植していた。開発チームの人間に契約書はどこかと尋ねると、契約はまだ結んでいないとのことだったが、ゲームはほぼ完成していたんだ。ゲームが完成して製造に回される段階になっても、まだ契約書は存在しなかった。これは問題だということで私は日本へと飛び、ナムコの幹部と食事をして、次の日にアメリカに帰国した。契約に関する話は一切しなかったが、契約書にはサインがあり、全てが整ったんだ。

日本でのビジネスのやり方を知ったのはそれが最初だよ。

John Greiner: 彼らはいかにもなアメリカ人だった。私自身アメリカ人だから良く分かるんだ。それに、Xboxは小生意気な会社だよ。彼らことは大好きだし、その業績には敬意を払っているが、たまにそれが誤解を与えることもある。日本の市場に参入しようとしているわけだから、日本人のように振舞う必要があるんだ。西部の開拓地のような振る舞いは許されない。古代オリエントであって、開拓時代ではないんだ。超えてはならないルールややり方というものが存在するんだよ。

ミーティングは、必ずしも意図したようには進まなかった。

Ed Fries: (Sonicのクリエーター)中さんとの荒れたミーティングを覚えているよ。彼とは討論をしたかもしれない。彼は討論好きなんだ。私もある時点で激高したが、これは非常に珍しいことだった。本当さ。でも私が耳にした噂話とは違って、彼は手を出したりはしなかったよ。

とはいえ、Xbox向けに日本製ゲームをどれだけ確保しても、長く記憶に残り続けるのは、逃してしまった魚の方である。

逃した魚

Xbox発売が1年後に迫った2000年のクリスマス。欧米パブリッシャーの殆どはXboxに参加していたが、日本では未だに軋轢に苦しめられていた。上層部は、現状を把握できずにいた。日本のチームはちゃんと仕事をしているのか?人選は適切か?やはり無理なチャレンジだったのか?そこで彼らは、日本へと飛ぶことにした。

Microsoftは、『Biohazard』の生みの親である三上 真司氏が、発売から1年も経っていないPS2での開発に嫌気が差しているという噂を耳にしていた。PSから『Biohazard』を引っ越そうとしているというのである。そんな彼は、Xboxを準備中のMicrosoftと、ゲームキューブを準備中の任天堂へと目を向けた。Microsoftは、ここぞとばかりにミーティングを用意した。

Bachus氏は、ロックスターのようにサングラスをかけて革のジャケットに身を包んだ三上氏のことを覚えている。続いて、取り巻きたちがMicrosoft Japanの会議室へと入ってきた。

ミーティングは、日本語と英語に堪能なMicrosoft Japanのスタッフが取り仕切った。最初はスムーズに進んでいたミーティングに、徐々に暗雲が立ち込み始めた。不安そうに姿勢を変えるBachus氏。三上氏の仕草やトーンから、彼が期待したような答えを得られていないのは明らかだった。ミーティングは全て日本語で行われ、状況を知らせるメモがBachus氏に逐一渡されていたが、彼にできるのは、全てが崩壊していく様子を、恐怖と絶望に満ちた眼差しで見つめることだけだった。ミーティングは唐突に終了し、三上氏は立ち上がってお辞儀をすると、その場を立ち去った。

re41.jpgGC版『Biohazard 4』

Bachus氏は怒り狂っていた。通訳が説明する。Microsoftが耳にした噂、つまり三上氏がPS2での開発にウンザリしていたのは事実だったが、三上氏の開発チームが受け取るボーナスはゲームの売り上げに左右されるものだったため、当時の市場をほぼ独占していたPS2から、日本では確実に失敗すると見られていたXboxへの移行を正当化する理由を求めていたのだ。「そちらのオファーは?」三上氏は率直に聞いた。

最終的に、憤慨した三上氏が聞きたかったのはMicrosoftの哲学だった。ソニーはゲームをエンターテイメントと位置付け、Emotion Engineによって単なるゲーム以上の存在にすることを約束していた。任天堂はゲームをオモチャと位置付け、恐らくは世界最高のゲーム・デベロッパーである伝説の存在、宮本 茂氏がその頂点にいた。ではMicrosoftは?しかし、Microsoftはその答えを提供することができなかった。

Kevin Bachus: 私はもう窓から飛び降りんばかりの勢いだったよ。だって、我々はゲームを映画のようなアートに昇華することが目的だと、これまで何度も何度も繰り返し言ってきたんだから。開発ツールやAPIの成熟、そしてテクノロジーのパワーによって、Xboxでゲームを作る開発者は、ゲームを更なる高みへと昇華させることに集中できるということをね。

それを聞いた部下は「それは素晴らしい!もっと前に知っていれば良かった」と言っていた。残念ながら、もう手遅れだったんだ。

Bachus氏は、当時のXbox JapanのトップだったPat Ohura氏に、すぐ大阪に向かって契約をまとめるよう指示したが、既に手遅れだった。三上氏は既に任天堂と会っており、『Biohazard』をゲームキューブでリリースすることを決めていたのだ。

Kevin Bachus: 『Biohazard 4』が任天堂独占になり、Xboxでリリースされるまでに時間が掛かってしまったのは、それが理由だ。とてもストレスが溜まる出来事だったよ。

Ed Fries氏も、Xbox独占タイトルを逃してしまった経験を持っている。ロンチ時にXboxをサポートしていなかった唯一のメジャー・パブリッシャーであるスクエアによるMMO『Final Fantasy 11』だ。

スクエアは『FF11』をXboxで発売することを望んでいたが、Microsoft本社のXbox Liveチームはこれを拒否し、よりオープンなプラットフォームにするというアイデアを退けた。スクエアはPCのプレーヤーとXboxのプレーヤーが一緒にプレーできる環境を望んでいたが、これは解決が技術的に難しい問題だった。

Ed Fries: Microsoftはスクエアの件に乗り気ではなかった。私はただスクエアにXboxをサポートしてもらいたかっただけで、スクエア自身も乗り気だった。ソニーとの関係が強かったために『Final Fantasy』のコア・タイトルを持ってくることには消極的だったが、『FF11』を手に入れることができれば、Xboxに『Final Fantasy』が登場することになる。いい感じだろう?

多くのミーティングを経て、2003年のE3で最終的なミーティングを行うことが決定した。Microsoftとスクエアの幹部たちが一堂に会し、『Final Fantasy 11』について話し合うのである。このミーティングは、開始早々酷い有様だったという。

Ed Fries: あのミーティングをセッティングするために、私は大変な努力をしたんだ。そのミーティングが崩壊していく様子を、私はただ見ていることしかできなかった。ミーティングはいかにもなアメリカ流で、日本勢はそれが気に入らなかったんだよ。

大惨事を目の当たりにしたような感覚だった。私の苦労が全て水の泡になった瞬間だよ。

Bachus氏は、スクエアがXboxをサポートしなかったのは「内省問題」であると語る。

Kevin Bachus: スクエアは、『Final Fantasy』を単一プラットフォームに集中させることが賢明だと考えていた。任天堂、セガ、ソニーのコンソールで『Final Fantasy』を発売するのではなく、最初は任天堂だけ、次はソニーだけ、という風に決めていたんだ。

スクエアは、Xboxの性能に魅了されていた。技術的な面で様々な協力関係を築こうとしていたが、最終的に彼らは他のどのパブリッシャーよりも、Xboxが日本で大きなシェアを獲得することはできないと強く信じていたし、単一プラットフォームに的を絞るという戦略を継続するということもあり、XboxよりもPSに出す方が彼らにとっては理に適っていたんだ。

『Final Fantasy』は、歴史的に見ても日本が主戦場のフランチャイズだ。海外でも売れてはいたが、日本国内ほどではなかった。PS1とPS2のインストール・ベースの方を取ったということだろう。しかも当時のスクエニは、『Final Fantasy』以外にこれといったフランチャイズを抱えていなかったんだ。

カテゴリ: 業界 タグ: -

最新記事